| 1.JR常山駅→ |
2.三つ井戸→ |
3.友林堂→ |
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井戸が三つ並んでおり、その内の一つは珍しい八角形の練瓦造りである。 |
常山城主戸川有林を祀る霊廟。造りは総欅で内部の各天井には極彩色の絵が描かれている。 |
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| 4.戸川友林の墓→ |
5.千人岩→ |
6.底無し井戸→ |
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| 常山の北麓高地にあり、墓の高さ2.45メートルの五輪塔で傍に、二基の墓があり、これは友林の重臣、日堅・日教のもの。 |
常山城合戦の時兵士千人がかくれたとも云われる。 |
常山城の飲料水を賄ったもの。今は登山道拡幅のため埋まり浅くなっているが昔はそこがないとも云われるほど深かった。 |
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| 7.女軍の墓→ |
8.常山城跡→ |
9.秀天の石橋→ |
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| 天正3年、小早川隆景が備中平定の余勢をかって時の城主、上野肥前守高徳を攻めた。当時、鶴姫その他34人の女軍がこれに応戦し、華々しくも最期をとげたが、この34柱の石碑が今も深い草露の中に眠っている。 |
天正3年(1575)の「児島常山合戦」により落城城主上野隆徳が岩の上で切腹をしたといわれる腹切岩があり、そばに、碑が立っており、春には桜の花に囲まれ眺めの良いところです。 |
花崗岩の石橋で長さ36メートル、幅3メートル、橋脚は1ヶ所3本ずつ8ヶ所、1ヶ所における3本の橋脚の上には長さ2.7メートル、幅0.67メートル厚0.6メートルの石を横たえ、総体で54枚の石が並んでいる。 |
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| 30.素戔鳴神社→ |
31.槌ヶ原八幡宮 |
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| 伊邪那岐命の三貴子のひとり素戔鳴尊を祀る神社。暴風神、農業神として祀られている。 |
もとは、加茂宗津にあったが、972年に葛山の頂上に遷宮し、その後現在地に遷宮した。 |
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| 667年 |
(天智六年) |
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朝鮮の進攻にそなえて瀬戸内海沿岸に城を築く、このとき常山城が設けられた。 |
| 1467年 |
(応仁元年) |
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応仁の乱おこる。このころ上野氏によって、常山城が改築された。 |
| 1575年 |
(天正三年) |
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常山城(上野隆徳)が小早川の軍勢に攻め落とされた。このとき女軍奮戦。 |
| 1597年 |
(慶長二年) |
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岡山城が完成し城下町も整備される。この年、常山城主戸川友林没。 |
| 1598年 |
(慶長三年) |
・・・ |
常山落城の時池の丸にのがれた上野隆徳の娘、妙心禅定尼が死んだ。 |
| 1606年 |
(慶長十一年) |
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常山城がこわされ、一部を下津井城に移転。 |
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※玉野市史参考 |
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| 天正三年六月四日、毛利のすべてが常山の包囲を完了し、翌日は、休養させて六日の朝八時頃から攻撃にかかった。 先ず、茂曽呂の人家に火をかけて、それを機に茂曽呂、宇藤木、用吉の三方から常山の頂上へと急な山肌をよじ登った。 城中には男女百余人しかいなかった。 攻め寄せる敵のときの声を聞きながら静まりかえって待っていた。 多勢に無勢、引きつけるだけ近くに引きよせて戦いをしようとの隆徳の策戦であった。 戦うこと一刻、二の丸の木戸を破ることも出来ないままに、この日の戦いは毛利方が引きあげた。 七日の朝をむかえると、男女百余人は今日を最後と身も心もととのえ、二の丸大戸を開いて待っていた。 何分敵は多勢、この上の討ち合いは無用と本丸に引きあげた。 本丸では、女たちが最後の決意で身づくろいを急いでいたが、一番に隆徳の母、続いて息子の源五郎高秀、最後に隆徳の妹が自害し、隆徳は涙ながらにこの三人の首を落として合掌した。 時に妻鶴姫は、“私は三村の家に生まれ、この城主の妻となり、今城がおちいるのを目のあたりに見ながら、敵一人も討たず自害する女ではありません”と鎧を着け、二尺七寸の大刀を背負い、白柄の長刀をとって広場へ出た。 これを見た女房共が、“どうせ散るべき花ならば、奥方さまと同じ嵐に誘われて死出の山、三途の川までお供をいたしましょう”と長刀を引っさげて敵中に切りこんだ。 敵は新手を繰り出して攻めたてる。 今はこれまでと思った鶴姫は大将宗勝に近づき、“われ女なれども、勝負願いたい”と長刀で打ってかかると、宗勝は、“女を切る刀は持たぬ”と引く。 鶴姫は、城中へ引き上げ、隆徳と向かいあい、“お先に参らせていただきます”と自害すれば、隆徳も腹十文字にかき切れば、その場に自害した。 三十四人の女房たちも皆これに殉じて自害した。 備中兵乱記は最後に「例し少なき事どもなり」と結んでいる。 時に天正三年六月七日の昼前であった。 |
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